サロンに鎮座している、アーユルヴェーダの神様
ダンヴァンタリ。(薬師如来さま)
花屋そらうみさんに、サロンに飾るものを頼んでいたのですが、思いがけず、紫陽花のプリザーブドフラワーで
花輪を作ってくださった🙏
そらうみさんがアーユルヴェーダを調べてたらダンヴァンタリが出てきて、花輪をかけられてたからって。
めちゃくちゃ嬉しかった✨
お花に包まれたダンヴァンタリ、とっても華やかに✨
ありがとうございました。
ところで、私がリスペクトしている清水友邦さんが発信していたこと、私がアーユルヴェーダを伝える時にとても大切にしている「プルシャとプラクリティ」「見る者、見られる者」についても触れていた。
とても分かりやすいので、長文ですが興味がある方は^_^
(本人の了承を得ています)
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瀬戸内寂聴さんが11月9日に99歳で肉体を離れました。
寂聴さんとはインドを旅していた時に祇園精舎(サヘート・マヘート)で偶然お会いしたことがあります。
祇園精舎は雨季の間に定住して瞑想する雨安居(うあんご)で釈迦牟尼仏(ゴータマ・シッダールタ)が最も長く滞在した仏教の聖地です。
寂聴さんとは霊鷲山(ラジギール)のホテルも同じでした。寂聴さんに寄りなさいと言われて日本に帰国してからお寺にも訪問しました。とっても気さくな方でした。
旅をしていると実に様々な人と出会います。
光の根源のような魂から、堅い自我に覆われ肉体の五官に囚われている魂までこの地球はあらゆる魂が出会う場のようです。
この世界は階層構造になっています。
階層の下方から上方を知ることはできません。
理解出来るのは相手よりも自覚の領域が広いときか同じ領域を持っているかに限られます。
つまり、お互いに共通の振動帯域がなければ話をしても理解することは出来ないです。
微細(サトル)な領域は振動帯によって分けられています。
同じ振動数をもった魂だけが出会う世界は違う経験を得られにくいのでしょう。
この地球では愛にあふれた人に出会うこともあるでしょうし、攻撃的な人や、人格が冷たく皮肉っぽい人にであうこともあります。
肉体をもった物質世界では、ありとあらゆる人々との出会いのドラマがあります。
その時に喜怒哀楽の感情を味わう事ができます。
魂は記憶を失ってこの世界に誕生しています。
そして現象世界に適応したマインドを自分だと思っています。
地上世界は実に、さまざまな経験ができるようになっています。
それはベーシックな肉体という共通の体を持っているからこそ、異なる振動数の魂でも出会うことができるのです。
童話の主人公は、まま母から意地悪を受けたり、性格の悪い人からさんざんひどい目にあったりしますが、それは微細(サトル)の世界では体験できない貴重な経験です。
良い人ばかりではドラマがなりたちません。
名脇役がいないと物語は刺激がなく単調なのです。
サンキャ哲学にでてくるプラクリティ(物質原理)とプルシャ(純粋意識・観照者)の関係は演劇を演じる役者と芝居をみている観客のようなものです。
よくできた脚本と演技力がある役者が演じると観客はその芝居と自分を同一化して、よろこびや悲しみを感じます。
人生で受け入れられない経験をすると不快な感情や重たい気分に巻き込まれてマインドは苦悩します。
マインドが作り出す仮想現実を真実と思い込んでいるのです。
メロドラマを現実と思って深刻になっているのが、私たちのマインドです。
沈黙して自己の本質に気がつけばマインドが演じている芝居が現実ではないことに気がつきます。
思考との同一化をやめ夢から覚めると本質である我に帰ります。
観照が起きると悲劇と喜劇を繰り返す人生をそれほど深刻にならずに過ごすことができるようになるでしょう。
肉体をもったこの世界では様々な経験をすることが可能になっています。
そのほうが魂が自覚するには都合がよいからなのでしょう。
二元性の世界では愛するものを失うことの苦悩と、悲しみに満ちています。
世界を死と生、苦と楽、光と闇に分けて見ているマインドと同化している限り、苦しみやつらく悲しいことから逃れる事はできないでしょう。
苦悩も喜びも包み込んで溶かす真実の愛に気がつくまでは
「人は愛するために生まれてきて、愛するために生きている。愛するということの、究極は許すことなんです」瀬戸内寂聴
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