私がリスペクトしている、清水友邦さん。
自然に備わっている自己の本質への気づき、アーユルヴェーダ新講座1年コースでもお伝えしています。
友邦さんの言葉がとても分かりやすかったので
シェアします。(本人の了承を得ています)
特別な修行をしなければそこに気づけないとか、特別凄い人でなければそこに気づけないというものではないということ。
(何もしなくていいという意味ではありません。)
長文なので、興味のある方は^_^
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すること(doing)の瞑想と、あること(being)の瞑想があります。
沈黙は思考を静かに落ち着かせることではありません。
沈黙が主体となって思考に気がついている状態です。
努力することなく沈黙が起きている状態です。
沈黙はあること(being)と関係しています。
最初は思考を鎮めようと注意を呼吸に集中したり、数を数えたり、イメージしたり、マントラを唱えたり努力(doing)します。
それが瞑想の最初の段階です。今ここに集中することで、停滞していたエネルギーが上昇して
歓喜したり、光に包まれたりします。
それがマインドの努力(doing)で起きるサマーディ(瞑想の境地)です。
それとは別にマインドの努力なし(being)に起きるノーマインドのサマーディがあります。
マインドが努力して起こした瞑想の境地は努力をやめると、どんなに素晴らしい境地でも消えてしまいます。
マインドは素晴らしい体験に執着して追い求めて(doing)しまいます。
マインドは今ここ(being)にいられません。
だからと言って努力をしないでいればいいということでもありません。
努力しても努力しなくとも、マインドと同化しているうちはマインドの次元を水平移動するだけなのです。
できる限りの努力を続けることで沈黙への準備が整います。
沈黙は努力のみでは起きないので辛抱強く待たなければなりません。
そしてある日、自然に努力が落ちて完全な沈黙に気づくのです。
私というやり手がいない時、沈黙が訪れます。
それは存在からの恩寵(grace)ともいうべきものなのです。
何十年も修行したり、瞑想したことのない普通の人にも沈黙はおきます。
容姿、職業、学歴、教養、勉強した年数も修行した年数も関係ありません。
瞑想歴やスピリチュアル歴何十年を誇っても関係ないのです。
覚醒・目覚めは誰もが自然にそなわっている自己の本質です。
それは最初からいつも、目の前に当たり前にあります。
あまりにも普通にある為にかえって気がつかないのです。
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すすきが綺麗ですね♡
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